《「二十四の瞳」との再会)》

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今年(2016)の2月19日(金)は上場企業であるビジネスブレイン太田昭和の新入社員研修(7時間)を担当した。その際、私が青春時代に観た映画のベストワンは、日本映画では「二十四の瞳」(壺井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演、1954(昭和29)年、松竹)、洋画では「エデンの東」(ジョン・スタインベック原作、エリア・カザン監督、ジェームズ・ディーン主演、1954年、ワーナー・ブラザーズ)であり、いま観てもその時の感動が(よみがえ)る。よい映画は自分の宝の一つであることを伝えた。

その翌日、毎日新聞の文化面で、1934(昭和9)年生まれの直木賞作家長部日出雄氏の「映画と私の昭和」という記事で、「二十四の瞳」が取り上げられていた。『黒澤明監督「七人の侍」と同じ昭和29(1954)年に封切られた木下恵介監督「二十四の瞳」は、前者が躍動感と迫力に満ち、後者は長閑(のどか)な感情を漂わせ、作風が全く対照的で一見似ても似つかない。だが意外な共通点があって黒澤作品が7人7様の侍の個性をそれぞれ一種の典型にまで高めていったのと同様に、(つぼ)()栄原作の木下作品は大石先生の教え子の12人を外見でも性格でも一目で分かるように画然と12通りに描き分けて見せた。』としてこの映画の特徴を語り、子役の12組24人については、『1800組あった応募者の中から11組が選ばれた。つまり1組だけを例外としてあとは全部本物の兄弟姉妹が演じたのだ。』ということから、『主役の子どもが素人ばかりなので監督が狙った表情を撮るためには普通の何倍ものフィルムを要する。』として撮影の苦労話に触れ、そして最後には戦争のむなしさを伝える。『映画の終盤で大石先生は出征し戦死して今は白木の墓標となった竹下竹一、相沢仁太、森岡正の霊に手を合わせる。観客には最初の授業での印象が鮮明に記憶に残っている懐かしい顔ばかりだ。「二十四の瞳」は作中人物を実在の人物のように思わせることによって、その一つ一つの死の重さを痛切に実感させる永遠の鎮魂歌となったのである。』と解説を終えている。長部氏は私とほぼ同年代であるだけに、この映画に対する想いは重く深いものがあった。

その翌日、私が50年余り監査役を務めている浜松の新機械技研へ出張したが、その浜松市内に浜松出身の木下恵介記念館があることを知って、鈴木茂常務に案内されて見学をした。そこに「二十四の瞳」の脚本が展示されていたので、係の方にそれを入手できるかと尋ねたところ、それは不可能であるといわれた。ただ、そこに「KEISUKE」という生誕100年を記念して出版された木下監督に関する小型本(2011(平成23)年、1,000円、313頁)があったので、それを購入した。浜松とその関係(207-233頁)を知り、61年前のポスター(18頁)と「二十四の瞳」についての記事を興味深く読んだ。特に、『ブルーリボン賞、ゴールデングローブ賞、キネマ旬報ベストワンほか国内外の映画賞を総ナメにし、「国民的映画」と称されている。壺井栄のベストセラー小説を映画化したもので、瀬戸内海に浮かぶ小豆島を舞台に、女教師と12人の子供たちの暖かい師弟愛を年代記的に綴った作品。木下監督は滞仏中に見たジャン・ルノアールの名作「河」にいたく感激し、次のように語っている。「<河>の演出は、僕が今まで考えて頭の中にあった演出の最高のものだと思ったのです。(中略)その<二十四の瞳>のお手本みたいなものが<河>ですね。ちっともセコセコした見せかけがない。何にもしていないように見せながらうまいというのは、大変な難しさですよ。」全編を唱歌で統一し、子供たちの成長に違和感を覚えさせないように兄弟姉妹で同じ役の分教場時代、本校時代を演じさせるなど木下監督のきめ細かい演出は本作の随所に見受けられる。』(82頁)という解説は、私にとっては新たな知見であった。

私が少年時代に感動した映画「二十四の瞳」の原作は、1960(昭和35)年9月19日、公認会計士第二次試験の合格発表後の10月7日に購入して読んだ『「壺井栄/佐田稲子集」現代長編小説全集10』(講談社、1958(昭和33)年、200円)と、主要な事項をさし絵付きで解説が付されている『「二十四の瞳」少年少女日本文学館13』とともに、ビデオ(VHS版)、DVD(デジタルリマスター版)も本箱に保存しており、浜松から帰ってすぐ、久しぶりに「二十四の瞳」の大石先生と12人の教え子と再会した。この不思議な出会いはまだ続いたが、これについては、次回に取り上げることとした。

Category: 事務所NEWS
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