《「二十四の瞳」を作った人と観た人)》

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(1)監督木下惠介氏

まず木下惠介氏の略歴は、1912(大正元)年12月5日、浜松市伝馬町の漬物屋「尾張屋」を営む父・周吉、母・たまとの間の七男三女のうち五男として生まれ、浜松工業学校(現、浜松工業高等学校)卒業後、オリエンタル写真学校で学んだのち、1933(昭和8)年に松竹蒲田撮影所現像部に入社、1936(昭和11)年に松竹大船撮影所の助監督部に移り、1943(昭和18)年に初監督作品「花咲く港」を発表。以降、1988(昭和63)年発表の「父」まで49作品を監督し、1998(平成10)年12月30日に86歳で逝去する。なお、弟・木下忠司氏(1916(大正5)年生まれ)は、作曲作詞家として惠介作品の音楽を担当、妹・芳子氏は木下惠介氏の右腕カメラマン楠田浩之氏に嫁ぎ脚本家となる。

この「二十四の瞳」の制作について、『KEISUKE』(木下惠介記念館、平成23年3月版)では、『木下監督は滞仏中に見たジャン・ルノアールの名作「河」にいたく感激し、次のように語っている。「<河>の演出は、僕が今まで考えて頭の中にあった演出の最高のものだと思ったのです。(中略)その<二十四の瞳>のお手本みたいなものが<河>ですね。ちっともセコセコした見せかけがない。何にもしていないように見せながらうまいというのは、大変な難しさですよ。」全編を唱歌で統一し、子供たちの成長に違和感を覚えさせないように兄弟姉妹で同じ役の分教場時代、本校時代を演じさせるなど木下監督のきめ細かい演出は本作の随所に見受けられる。』(82頁)と紹介されている。

この「河」について、佐々木徹『木下恵介の世界』(人文書院、2007年5月刊)では、『『河』は一九五一年製作のアメリカ映画、インド・ガンジス河の流域にある製麻工場の支配人一家の話である。現地人の暮らしや風俗、雄大な風景をたっぷりと写し、ストーリーとしては、支配人の娘で十四歳のハリエットと工場主の娘・ヴァレリー、それに隣りに住むアメリカ人とインド人のあいだに生まれた娘・メラニーの三人が、負傷して戦地から帰ってきた青年将校のジョンにたいして、三人三様の好意をいだくというだけのことだが、その終わり近く、それまで三人娘の心の綾と、戦争で片足を失ったジョンの心の揺れに目を奪われていた観客は、突然の悲劇に愕然とする。』(80-81頁)と紹介されている。そしてまた、『ハリエットには下に五人のきょうだいがいたが、男の子はボギーだけで、そのボギーがひそかに笛を吹いて馴らしていた蛇にかまれて死ぬのである。…(中略)』(81頁)とあり、これによって『悲嘆に暮れ、なすすべもない家族やそのまわりの人たち。母は泣き崩れ、ハリエットは食事も咽喉を通らない。しかしまた、季節はめぐり、春が訪れ、新しい生命が誕生する。滔々と流れる大河のように、自然界は喜びも悲しみも、生も死も、あらゆるものを受け入れ、呑み込んで、生々流転を無限に繰り返す。古くから伝わるインドの人生観・自然観が、理屈も主張もなく、ただ美しい映像として展開される。画家ルノワールの血筋を引くジャン・ルノワールの作品『河』は、映像芸術のひとつの頂点であるように思われる。』(同上)とあり、この映画の表現を木下惠介氏は「二十四の瞳」に取り入れたとみられる。

木下惠介氏と主演女優高峰秀子氏との人間関係について、1987(昭和62)年9月1日から日本経済新聞に掲載された「私の履歴書・木下恵介」では、『高峰秀子さんとの縁はずっと古い。私が蒲田の撮影助手になって最初の仕事は島津先生の「頬を寄すれば」だったが、この作品に子役で出ていたのが秀子さんである。それも撮影の初日、赤坂の霊南坂の教会の前で、その日の最初の撮影が秀子さんの泣き顔で、「なんてうまい子役だろう」と驚いたものだ。後にその教会で、秀子さんと松山善三君の結婚式の媒酌までやることになったのだから、運命とは不思議である。』(第27回)と述べられている。この出会いと結婚までの詳細は、後掲の『わたしの渡世日記〈下〉』に記述されているが、紙面の都合で省略する。また、『「二十四の瞳」(昭29)も、作りたい、作らなくてはと思う題材であって、まさにそれにピッタリの秀子さんという女優がいたから出来たような作品であった。』(同上)とされている。このような二人に支えられて名作が生まれたのである。

 

(2)主演高峰秀子氏

「二十四の瞳」で大石先生を演じたのは高峰秀子氏(1924(大正13)年3月27日北海道函館で生まれ、2010(平成22)年12月28日東京で没した)であり、28歳か29歳のときに19歳から46歳までの大石先生役を演じた。「二十四の瞳」への出演については高峰秀子著『わたしの渡世日記〈下〉』(新潮社、2011年12月刊)の309頁から322頁に取り上げられている。出演にあたって、『原作を読んで、私はようやく二十四の瞳というのは十二人の子供の目玉を合わせて二十四個の瞳だということが分かり、ストーリーにも感動したけれど、出演するのはいささか気が重かった。というのは、私自身がイヤイヤ子役をしていた経験があるせいか、子役という人物がキライである。というよりも、子役を相手に芝居をすることが苦手、と言ったほうが当たっていたかもしれない。』(311頁)と当時を振り返っているが、子供たちについては『みんな良い子で、私が昔子役をしていたときのように狸寝入りなどする不届き者はいないが、木下監督が声を()らして説明しようと叫ぼうと、一人があっちを見れば一人がこっちを向き、一人がセリフを言えば一人はアクビをしている。ある長いカットでは、本番四十九回目にやっとOKが出て、子供たちもさすがにゲンナリした顔をしていたが、先生役の私のほうがへたばって、道ばたに座りこんでしまったくらいだった。』(314頁)というエピソードから、撮影の苦労が伝ってくる。

ただ、子役を演じた子供たちは成人し、社会人として活躍しているが、『「金の切れ目が縁の切れ目」というけれど、私たち映画人のつきあいは「仕事の切れ目が縁の切れ目」で、映画が完成したとたんに、ハイ、サヨウナラで、はなはだ(あっ)()ない。が、「二十四の瞳」に出演した子供たちは、いまだに小石先生の私に年賀状や暑中見舞、近況などを知らせてくれる。』(316頁)ということから、本当の教師と教え子のような付き合いが生まれており、高峰秀子さんの人間性によるものと思われる。これも私どもが知らなかった「二十四の瞳」が生んだその後の物語である。

 

(3)この映画を観た三人

まずはじめの方は原作者の壺井栄氏である。澤宮優『二十四の瞳からのメッセージ』(洋泉社、2007年11月刊)によれば、『原作者の壺井栄も「映画のほうが原作よりもいい」と絶賛した。彼女も木下恵介の細やかな神経と高峰秀子の真摯な演技に感銘して、映画を見て泣いてしまった。壺井は自らが小豆島出身というせいもあって、島の風景が出るたびに泣いた。そして小学唱歌が流れ、次第に映画がクライマックスに近づくにつれてさらに涙は止まらなくなった。』(206頁)とされている。なお、本書を読んで「二十四の瞳」の裏話など感動的な事実を知った。

もうひとりの方は田中角栄氏である。佐藤昭子『決定版 私の田中角栄日記』(新潮社、2016年6月版)では、『田中が自由党の副幹事長になった二十九年ごろ、眼を真っ赤にして部屋に入ってきたことがある。聞けば、池田勇人幹事長と『二十四の(ひとみ)』を観て、涙が止まらなかったのだという。』(70頁)とされている。このことから、人情味の厚い田中氏の一面を垣間見ることができる。

最後は私である。この映画を初めて観たのは1954(昭和29)年、私が働きながら定時制高校に通っていた17歳のときであった。大石先生が私の中学三年時の担任田中昌子先生と重なり、また大石先生が母となった姿は私が12歳のときに亡くなった母と重なり、涙して観た。18歳のとき、将来先生になろうと決心したが、この「二十四の瞳」が脳裏にあったことに、その後再び観たときに気付いた。

ただこの映画では、大石先生の夫が船長として乗っていた遊覧船の上から、別の船に乗る修学旅行中の生徒と大石先生に手を振る場面があった。これは原作にはないが、なぜかわざとらしく感じた。ただし、これについて澤宮優は、『じつは映画はほぼ原作に忠実に撮られているが、若干映画では違う場面もある。大石先生の夫は小説では外国航路の船員となっているが、映画では遊覧船の船員となっている。そのために映画でも屈指の名場面となった修学旅行へ行くシーンが生まれた。大石先生と生徒の乗った船が、遊覧船を運航する夫と海の上ですれ違い、互いに手を振るところである。このカットはなんども船同士を旋回させて、すれ違うように試みた。そして遊覧船の船員たちが大石先生の姿を見ると、トランペットで演奏して歓迎するというコンテになった。互いに船の上から手を振り合う。ここは大石先生のはにかんだ愛情が出ていて秀逸である。この場面を生み出すために木下恵介のしたたかな計算があった。』(『二十四の瞳からのメッセージ』206-207頁)とされているが、いまだに納得していない。

 

―現在も私の教え子たちと年2回会う機会のあることに幸せを感じながら―

平成28年7月17日

横山和夫

Category: 事務所NEWS
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