《会津戦争を考える(その2)》

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明治維新とは,『幕藩体制を崩壊させて天皇制統一国家を形成し,封建社会から資本主義社会への移行の出発点となった社会的・政治的変革』(百科事典マイペディア)をいうが、その期間は、一般に1853(嘉永6)年のペリー来航から1871(明治4)年の廃藩置県までと解されている。半藤一利氏によると、この「明治維新」(維新:物事が改まって新しくなること)ということばは、『日本の近代史には当たり前のように「明治維新」という言葉が登場しますが、そもそも「維新」という言い方自体、明治一〇年代ぐらいから使われ出した()(さん)臭い言葉だと思っています。』(半藤一利著『もう一つの「幕末史」』三笠書房、2015年、61頁)とあり、しかも、『明治維新というのは単なる薩長による政権強奪じゃないか、と言われるかもしれません。まさにその通りと言っていいのではないかと思います。』(同上. 15頁)という見方を示している。

ところで会津戦争について、『準備を整えた新政府軍は八月二〇日、二本松を出発、()(なり)(母成)峠を突破、二二日、()(なわ)(しろ)城((かめ)()城。(ふく)(しま)県猪苗代町)を攻略、翌二三日には(わか)(まつ)城下(福島県会津若松市)に殺到した。会津藩の主力部隊は越後・(しも)(つけ)方面におり、新政府軍の進撃があまりに急速であったために、若松城に引きあげることができなかった。城下には四〇〇~五〇〇の兵力しかなく、しかも老人、少年が多かった。若松城下はたちまち戦火につつまれ、多くの藩士の家族が集団自殺をとげた。有名な(びゃっ)()(たい)の悲劇もこのような混乱の中で起きたのである。新政府軍は、略奪・暴行を公然と行い、老若男女を(さつ)(りく)した。』(中村哲著『明治維新―日本の歴史第16巻』集英社、1992年、32-33頁)として、その悲惨さが示されている。

さらに、幕末史に詳しい作家二人による対談では、会津戦争の資料について、次のように述べられている(半藤一利・保阪正康著『賊軍の昭和史』東洋経済新報社、2015年、29-30頁)。

保阪 官軍が会津に入ったとき、中国でいうクーリーみたいに、荷物を運ぶ人足も随分入ってきたらしいんですね。この連中は強盗や強姦など、ひどい悪さをした。蔵を開けて物を持って行くとかね。さすがに士族はそこまでやらなかったが、()(えき)()はひどかったと、会津の文献に書いてあります。

半藤 会津の文献にはありますね。ところが、歴史というのは面白いもので、今、戊辰戦争を調べようとすると、薩長軍側の資料は山ほど出てくるんですよ。それこそ、薩長軍側で従軍した下級兵士の日記まで活字になっていて読めるんです。

賊軍側の資料も、一応残ってはいます。ただ、みんな原文のままですから、残念ながら私たちには読めない。活字になっていないから、古文書を読む訓練をしないと読めないんです。だから、官軍がどんなひどいことをしたかというのは、残念ながら伝聞ばかりです。

保阪 そうですね。あとは、地元の歴史家が現代語訳してくれた数少ない本でしか知ることができません。私がたまたま読んだ会津の本では、かなり凄惨なことが書かれていました。惨殺されたり、死体を何か月も放置するよう命じられたり、犬に食われ

 

た遺体もあったりなどして、地元に屈辱感が残ったと書かれています。

けれど、そうした軍属側から見た事実は、伏せられている感じですよね。

その一つの例として、『『会津戊辰戦史』に、その残暴ぶりが記載されている。一、王師などと(とな)えし敵は、野蛮のはなはだしき行いのみ多かりしは、言語の外なり。商工、農家を問わず、家財の分捕りは公然、大標札を建て、薩州分捕り、長州分捕り、いわく何藩分捕りと記し、しかして男女老幼を(さつ)(りく)し、強姦をば公然の事とし、陣所、下宿には市井(しせい)人の妻娘を捕え来たりて侍姜とし、分捕りたる衣食、酒肴に(ごう)()をきわめたる。一、若松愛宕町の呉服及び質店森田七郎右衛門の土蔵は、薩州隊と肥前隊とにて分捕りを争い、薩州隊は自隊の不利を(いか)り、(やき)(だま)を投じて土蔵を破壊し、彼我、なんら得るところなかりき。こうした話が伝わるにつれて、会津藩兵の戦闘意欲はますます高まっていった。』(星亮一著『敗者の維新史―会津藩士荒川勝茂の日記』(青春出版社、2014年、87-88頁)という資料を目にしたが、その悲惨さとくやしさが伝わってきた。

このような会津戦争を敗者の立場から詳細に記述した、原田伊織著『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト―』(毎日ワンズ、2015年)がベストセラーになった。ここでは、『「先の戦争」といえば戦後日本では「大東亜戦争」のことを指すが、近年まで会津では「戦争」といえばそれは「会津戦争」のことを意味した。それは、会津自身が総力戦を展開したことによる幾多の悲劇を味わったことによるだけでなく、長州・薩摩、そして土佐の、特に長州人による信じられないような非道な、残虐極まりない蛮行に大きな原因がある。籠城戦が終わった会津城下、領内で長州藩兵などが行った、とても人間が行ったとは考えられない残虐非道な行為の記憶は、簡単には消えないものである。』(262頁)という考えのもと、かなり具体的な蛮行が取り上げられており、その内容と表題の強烈さには、いささかショックを受けた。

そして、『昭和六十一年、長州・萩市が「もう百二十年も経ったので」として議会決議をして会津若松市との友好都市関係の締結を申し入れたが、会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶した。当然であろう。「始末」は、まだ済んでいないのだ。』(同上. 262—263頁)としている。

ところで、大人向けのマンガで知られている弘兼憲史作『ヤング島耕作―主任編〈4〉』(講談社、2010年)では、妻の出産に立ち会わない娘婿の島耕作に対し、福島県の実家から来ている母親は、『へぇ― サラリーマンて厳しいのね だから好きじゃないのよ ついでに山口県人だし』(9頁)と言い、会津と長州との戦いを思い起こさせるシーンがあった。

さらに『係長島耕作〈2〉』(講談社、2012年)では、耕作が電話で妻に『悪いなそっちへ行けなくて…………みなさんによろしくお伝えください』(27頁)というと、妻は『むしろ来なくて正解よ うちは会津藩の白虎隊の戦士の家系だから』(同上)と伝えると、となりで酔っている妻の父親が『お前の婿(むこ)か!ちょっと代われ』(同上)と受話器を取り、『こらあ、婿‼ 聞くところによるとお前は山口県の男らしいな!(さっ)(ちょう)()()の人間にはうちの敷居は(また)がせん‼ 永久に来なくていい!』(同上)と言った後すぐに電話を切った。おでん屋でこれを聞いていた耕作の同僚の寺西が、『あハハハ そりゃ大変だ‼ 俺も高知出身だから会津出身の老人には今まで何度いじめられたか…』(28頁)と言い、おでん屋のママが、『何それ?どういうこと?』(同上)と聞くと、寺西が『会津の人間の中には(いま)だに薩長土肥つまり鹿児島県 山口県 高知県 佐賀県の人間に対して恨みを持っている連中がいるんだ 江戸幕府が崩壊して政権交代する時 日本国内で旧幕府側と新政府軍の間で戦争があった ()(しん)戦争というやつだ 鳥羽伏見の戦から始まって 北上し箱館五稜郭で終わるまで各地で衝突があった 幕府側についた会津藩では十代の若者で組織された白虎隊というのがあったが それがほぼ全滅したという歴史がある』(28—29頁)という説明に対し、ママは『え―ッ この時代にそんな恨みを持った人がまだいるの?』(29頁)と驚き、寺西が『そうなんだよ そういうお年寄りもたくさんいるというのは事実だ』(同上)と応えるシーンもある。

大人向けのマンガとはいえ、このような会話で戊辰戦争が取り上げられていることは驚きであり、この物語のレベルの高さを知った。

なお、会津藩の名誉に関して、中村彰彦著『なぜ会津は希代の雄藩になったか―名家老・田中玄宰の挑戦』(PHP研究所、2016年)がある。紙面の都合で内容には触れないが、一読をお勧めしたい。

いずれにしても無血革命と言われた江戸城引渡しののち、このような悲惨な戦いがあり、現代にも尾を引いている事実を知り、今さらながら勝者よりも敗者の思いの深さを知った。

 

―高校野球の決勝戦で北海高校が敗れた日に―

平成28年8月21日

 横山和夫

Category: 事務所NEWS
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