《石川啄木の生き方を考える―その1》

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《石川啄木の生き方を考える―その1》

1.石川啄木を知りたいと思ったきっかけ

大学の教師から作家となり,『吾輩は猫である』(1905年1月—1906年8月)および『坊っちゃん』(1906年4月)によって明治時代の代表的な作家となった夏目漱石(1867—1916年)は,2016年12月9日には逝去100年,そして今年2月9日には生誕150年を迎える。この1年あまり夏目漱石の作品を読み,関係資料の蒐集にあたった。その一つとして,関川夏央原作,谷口ジロー作画『「坊っちゃん」の時代』(第一部—第五部,双葉文庫,2002年—2003年)を手にして一読したが,従来の「コミック・マンガ」とは一味も二味も違っていた。それはストーリーが実話であり,人物の描き方も本人の特徴を十分に表しており,とても印象的であった。

本書について,アメリカ人のフレデリック・L・ ショット氏は,「『「坊っちゃん」の時代』はマンガか。」として解説を加え,その最後に,『アメリカでも「コミック・ブック」という言葉の代わりにもっと正確な呼び方が求められているが,70年代から今日に至るまで試行錯誤的にさまざまな呼び方が試されてきた。中でももっともおかしな現象としては,日本風に瞳の大きなキャラや柔らかい体形の「カワイイ」女性キャラが登場するものを,comic bookではなく日本語の「manga」という言葉で呼ぶ人もいる。しかし,結局文学志向ものに対して今いちばん定着しつつあるのは他でもない「グラフィック・ノベルズ」だ。多くの本屋ではマンガの単行本が並んでいるコーナーに大体この名札が出ている。もちろん「絵で書かれた小説」という意味である。『「坊っちゃん」の時代』のように,小説や絵を新しい形で融合させている作品は,「漫画」,「まんが」,「マンガ」,「劇画」,「絵物語漫画」,コミックでもない。あえていうならば,「絵で描かれた小説」,つまり「グラフィック・ノベル」―ではないだろうか。』(第三部「かの蒼空に」,322—323頁)と述べている。ここで結論付けられているように,まさしく「グラフィック・ノベル」そのものであった。とくにこの第三部では,石川啄木が中心に描かれており,今までほとんど知らなかった人間像を知ることができたとともに,夏目漱石との間の人間関係が存在していたことは,驚きであった。

私は30年ほど前から盛岡市西松園の守口歯科クリニックの守口憲三先生とそのお弟子の先生方の顧問をさせていただいており,市内にある石川啄木の新婚の家,渋民にある1歳から18歳までを過ごした宝徳寺と石川啄木記念館などを見学させていただいたが,啄木本人についての知識はあまりなかった。そこで『新文芸読本石川啄木』(河出書房新社,1991年),『新潮日本文学アルバム石川啄木』(新潮社,1984年)を購入するとともに,インターネットから資料を集めて学ぶこととした。

 

2.石川啄木とその生活

まず,石川啄木本人についてみてみることとした。『岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に,曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれる。戸籍上は工藤一(くどうはじめ)。戸籍によると,1886年(明治19年)2月20日の誕生だが,1885年(明治18年)10月28日に誕生したともいわれている。』(出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」)とあることから,昨年が生誕130年ということになる。そして『1912年(明治45年)…(中略)…4月13日午前9時30分頃,小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻,父,友人の若山牧水に看取られている。26歳没。』(同上)ということから,啄木の人生はわずか26年2か月という短い期間であったが,詩人として大きな足跡を残した。

『1891年(明治24年)5歳。学齢より一歳はやく渋民尋常小学校に入学。1895年(明治28年)9歳,盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に入学,1898年(明治31年)12歳,岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年,岩手県盛岡中学と改名,現盛岡一高)で学んだ。三年先輩に金田一京助が居た。』(同上)とされているが,学業成績ついて,『「学業善,行状善,認定善」,これが盛岡高等小学校時代の三年間を通しての啄木の成績である。成績評価は,「善,能,可,未,否」の五段階だった』(前掲『新文芸読本石川啄木』,32頁)とあり,つねに優秀な成績であったことがわかる。さらに,『さすが神童とよばれただけのことはある。盛岡尋常中学校の入学試験の合格順位は(128名中:横山注)十番目,一年修了時の成績も学業の平均が八十点,行状百点で,すばらしいものであった。』(同上)とあり,啄木がきわめて優秀な生徒であったことがわかる。

しかし,『文学にのめりこみ,女学生堀合節子との恋愛が進行するにつれ,成績は急降下する。明治三十五年秋,五年生のときには,学期末試験のカンニングが発覚して,ついに退学にいたる。上級学校にすすむだけの余裕が家庭になかったので,思いきって,文学によって身を立てる道をえらんだのである。この賭けの代償は大きかった。明治の学歴社会は,啄木をつねに落伍者としてあつかうことになるからである。』(同上)とあり,しっかり勉強さえしていればトップクラスの成績で中学を卒業できたはずである。その後の啄木は,『学歴のないことを常に悩んでいた』(同上,100頁)とあり,詩に対する情熱を一層強いものとしたことだろう。

ところで,啄木という名の由来については,『「啄木」という名は,明治三十六年十二月,『明星』にはじめて五編の詩を発表したときにつかわれた。与謝野鉄幹が,自分で命名したという回想を残しているが,啄木自身は「無題録」というエッセイで,部屋にこもって,キツツキが木をつつく音を聞いていると,とてもすがすがしい感じがして,号にえらんだ』(同上,30頁)とされている。

 

3.妻節子とその生涯

14歳のときの啄木の初恋の相手で,その後20歳で啄木と結婚した堀合節子(戸籍上はセツ)は,啄木と同じ明治19年10月14日に岩手県南岩手郡上田村で生まれ,『盛岡第一尋常小学校,盛岡高等小学校をへて私立盛岡女学校に進学,明治三十五年三月二十六日,第九回卒業生として母校を巣立った。旧南部藩士の屋敷町に生まれた彼女は,士族で官吏という窮屈ではあるが,旧家特有の折目正しい家風の中に育ち,きびしくはあったが子煩悩な父と,おだやかで優しい母の愛を一身に受け,近代的な女学校教育を受けつつ,多くの弟妹から「姉様」と慕われて健康で明るい少女期を過ごした。』(前掲『新潮日本文学アルバム石川啄木』,16頁)とある。

当時としては高い学識を有した良家のお嬢様であったが,啄木との貧困生活のなか,全身で支えた節子は,『夫が死んだとき八カ月の身重で,しかも肺結核に侵されていた』(同上,94頁)とあり,夫を追うように,『まもなく病状が悪化して市内豊川病院に入院,あわれなみなし児として残されてゆく二人の愛児の上に思いをはせつつ白玉楼中の人となった。』(同上,95頁)とある。この「白玉楼中の人となる」とは,唐の文人李賀が臨終に天帝の使いが来て,「天帝が白玉楼成る。君を召してその記を作らむ」と告げた故事によるものであり,『文人・墨客(書や絵をかく人:横山注)の死ぬこと』(広辞苑)をいうとある。『夫の愛と才能を信じ,薄幸流離の中に,命を賭けてその芸術的達成を祈った節子の願いは,その死後大きく実を結んだといえるだろう。』(前掲『新潮日本文学アルバム石川啄木』,96頁)と解されており,この夫にこの妻ありとして運命を共にした節子に落涙した。

 

4.石川啄木の経済状況

啄木の生活については,『啄木は二十歳で結婚し,かつ一家の生活の責任を引き受けねばならなくなった。彼は,郷里の村で小学校の教員をしたが,明治四十年には函館に渡り,その町の弥生小学校の教員となった。間もなく函館の大火にあい,札幌に移り,さらに小樽,釧路と,新聞記者としての生活を一年ほどした。その間彼は,ほとんど詩歌の制作から離れ,新聞に雑文を書き,田舎新聞記者としての粗暴な生活をつづけ,筆は荒れた。その経済生活は無茶なもので,家族を友人の手にまかせたまま,送金もせずに放置するなど,無軌道放縦(ほうしょう)をきわめた。』(伊藤整稿「詩人の肖像」,前掲『新文芸読本石川啄木』,11頁)とあった。

当時の生き方について,『故郷の小学校では代用教員だが勤め口はあったし,函館では同じ教員をしながら函館日々新聞社に採用された。さらに小樽では北門新報社に勤め,釧路では弱冠二十三歳で釧路新聞社の実質的な編集長として月給二十五円をもらい,料亭にも出入りして芸妓小奴などとも遊んでいる。学歴がないとはいえ,その才能をかわれ,年齢からみても破格の待遇であった。都から遠い北の果ての町とはいえ,月給二十五円もあれば,妻子と両親くらい養うことは可能だったし,多少気に入らない上司がいたとはいえ,少し我慢すれば,貧困や病苦とは無縁の生活を送れたはずである。』(渡辺淳一稿「酩酊の歌人啄木」,同上,100—101頁)としている。

石川啄木自身も,『月に三十円もあれば,田舎にては楽に暮らせると―ひよつと思へる。』(『石川啄木 直筆ノート 悲しき玩具』財団法人盛岡観光コンベンション協会,2004年)としている。また上京した後,『漱石は月収二百円の朝日新聞の専属小説家,啄木は三十円の一校正係であった』(前掲『新文芸読本石川啄木』,86頁)とある。

ところで「30円」,「200円」は現在ではいくらほどになるであろうか。当時の銀行員の初任給が35円(週刊朝日『値段史年表』1998年,51頁)であり,2016年「賃金構造基本統計調査(初任給)」(厚生労働省)による大学卒の初任給は203,400円であることから,当時の1円はほぼ5,800円となる。したがって,啄木の給料「30円」はおよそ174,000円となるので,最低限の生活には事欠かなかったはずである。これに対して漱石の200円はおよそ1,160,000円となることから,漱石がいかに高給であったかがわかる。なお,啄木の初任給は25円とされている資料もあり(金田一京助編『一握の砂・悲しき玩具』新潮社,2012年版,276頁),この場合にはおよそ145,000円となる。

 

5.石川啄木の生き方と身体つきの要約

紙面の都合でその後の生活ぶりの詳細な内容については割愛するが,要約すれば,『借金王,生活破綻者,嘘つき,忘恩の徒 啄木に投げつけられる不名誉な異名のかずかず。啄木は冷静な生活者として生きたことはなかった,生きようとしなかった。実生活者としては失格だったが,歌人としてはすぐれた作品を生みだした。』(前掲『新文芸読本石川啄木』,91頁)とされている。また,啄木は『小がらなほうであった。…(中略)…成人してからも,身長五尺二寸二分(約一五八センチ),体重十二貫(約四十五キロ)で,渋民村での徴兵検査は,「筋骨薄弱で,丙種合格,徴集免除」というものであった。』(同上,28頁)が,17歳当時の写真(前掲『新潮日本文学アルバム石川啄木』,1頁)をみると,ハンサムで知的な好青年であったことを知ることがでた。

経済的に恵まれず,学歴も中途半端であった啄木は,新しい文学としての短歌の道を切り開きながらも,その奮闘から一時的な遊興に溺れ,経済地盤を失い,かつ妻子を顧みない壮絶な生活を送ったことを知った。現在ではこのような生活をしながら文学のみならず,己から求めた道を貫くことができる者はまずいないであろう。ただ1人だけ思い当たるのは北野武(ビートたけし)氏である。別の機会に氏のことについても取り上げたいと思った。

 

―石川啄木の生き方に教えられることが多かった

80歳を迎える正月のあたたかい日差しを受けとめながら―

平成29年1月2日

  横山和夫

 

Category: 事務所NEWS
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