《石川啄木の生き方を考える―その2》

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6.『一握の砂』から私が選んだ歌

 昨年11月中旬,渋民歯科クリニックの千葉晃揮先生の案内で石川啄木記念館を再訪した。以前よりも石川啄木の知識を得ていたので,いっそう興味深く見ることができた。館内には啄木と文学者たちとの交流資料や作品が展示されていた。また,敷地内には啄木が1906(明治39)年に代用教員として教鞭をとった渋民尋常小学校と当時家族とともに間借りしていた斉藤家が移築展示されており,当時の生活の一端を窺い知ることができた。また,配られたパンフレットによってJR盛岡駅の正面に掲げられている「もりおか」の文字は啄木によるものであることを初めて知った。

千葉先生から『一握の砂』(昭和43年復刻版,石川啄木記念館,2004年)をいただいたが,その中からいくつかを選んで再吟味することとした。なお,この『一握の砂』は発刊当時守口憲三先生から頂いたが,学生に貸与したままになっていた。

まずは『一握の砂』に取り上げられている「白砂」に関する歌10のうちの3つを選び,若干のコメントを述べることとした。

東海(とうかい)()(じま)(いそ)白砂(しろすな)

われ()きぬれて

(かに)とたはむる

この歌は最も知られているものの一つであるが,この「東海の小島」の所在地について,作家の澤地久枝氏は,『逗子あたりの海岸のような気がしていました。』(前掲『新文芸読本 石川啄木』,110頁)としているが,私は東海地方の小島と解して,私の故郷の近くの愛知県知多半島沖の(しの)(じま)かもしれないと思っていた。しかし,啄木が1907(明治40)年に渋民村から函館に移住したのち,友人と訪れた函館の大森浜を島に見たてて詠まれたものといわれている。このことから「東の海の小島」と考えなければならないことを知った。

()につたふ

なみだのごはず

(いち)(あく)(すな)(しめ)しし(ひと)(わす)れず

ここの「一握の砂」が本書の題名となっているが,「人を忘れず」は,次の初恋の人と続くのであろうかと,ふと思った。

(すな)(やま)(すな)(はら)()

(はつ)(こひ)

いたみを(とほ)くおもひ()づる()

啄木の初恋相手は,盛岡尋常中学校5年次のときの,後に妻となる「堀合節子」であり(前掲『新文芸読本 石川啄木』,93頁),劇作家・歌人の寺山修司によれば,『これが,節子にとっては初恋であり,はじめ(啄木の本名:横山注)にとっても初恋なのであった。』(同上,39頁)とされているから,ここでいう初恋の相手は節子ということになろう。

次は,だれでも知っている次の歌である。

はたらけど

はたらけど(なほ)わが生活(くらし)(らく)にならざり

ぢつと()()

石川啄木はかなり生活費に窮しており,金田一京助など多くの知人に借金をしており,その金額は,『啄木の生活は,莫大な借金によって,ささえられていた。ただ,啄木は借りた金額を忘れるほどいいかげんではなかった。ちゃんと「借金メモ」を残している。二百字詰めの原稿用紙一枚のこの「借金メモ」には明治三十七年暮から四十二年までの六十四件の借金の相手と金額が列記してある。合計金額は,なんと千三百七十二円五十銭にのぼる。これらの負債は返却さなかった。』(前掲『新文芸読本 石川啄木』,98頁)といわれているが,借金1,372円50銭は,啄木の月給46か月分であり,先月号で取り上げたように1円が現在の5,800円として現在の金額に換算すれば,約796万円となる。借金してもすぐに飲食や遊郭で費ってしまうから,いつも金欠であったようである。また,朝日新聞に勤めてもよくずる休みしたようであるから,あまり熱心に働いてはいなかったようだ。したがって,生活は楽ではなかったが,働くことはあまりなかったので,この歌も半分は事実ではないようである。このようなことから画家の安野光雅も,『というんだけど,そんなに働きましたかね。せっかく友だちや先輩が仕事を見つけてくれるのに,ろくに働きもしないで借金だけふやしてゆくんだから,生き方と考え方との間に大変な矛盾がありますね。』(前掲『新文芸読本 石川啄木』,112頁)としている。

次の歌はふるさとを想う歌である。

ふるさとの(やま)(むか)ひて

()ふことなし

ふるさとの(やま)はありがたきかな

啄木のふるさとは1歳から18歳までの,人生の63%を過ごした旧渋民村であり,『一握の砂』のなかでも「ふるさと……」から始まる歌は8編あることから,人一倍ふるさとへの想いが強かったようだ。この「山」はいうまでもなく(いわ)()(さん)であり,旧渋民村から見た晩秋の岩手山はその頂に白い雪を冠しており,その美しさは富士山と変わらない見事なものであった。

この岩手山(いわてさん)は,フリー百科事典『ウィキペディア(Wilipedia)』によると,日本の東北地方,奥羽山脈北部にあり二つの外輪山からなる標高2,038mの成層火山であり,岩手県の最高峰であり,県のシンボルの一つとされている。日本百名山に選定されている岩手山は,岩手県八幡平市,滝沢市,雫石町の広範囲にまたっており,西に姥倉山,大松倉山が続くものの,奥羽山脈の主稜からは離れており,独立峰に近い。東の盛岡側から見る姿は富士山のように長い裾野を引く整った形で,「表岩手」と呼ばれるが,南の雫石町や北の八幡平市松尾方面から見ると,外輪山の連なりが凹凸をなし,「裏岩手」と呼ばれる。この山域は,1956(昭和31)年に十和田八幡平国立公園に指定された。

なお,この岩手山の噴火活動は,おおよそ次のとおりである。

1686(貞享3)年 噴火。ベースサージ(ガス成分の多い火砕流)の発生,スコリア(玄武岩質の黒っぽい色をした軽石)の噴出。

1731(享保16)年 噴火。北東山麓に溶岩流(国の特別天然記念物・焼走り熔岩流)が発生。現在の八幡平市の集落の住民が避難。以後,現在まで285年あまり大きな噴火はない。

1919(大正8)年 小噴火(水蒸気爆発)。

1998(平成10)—2003(平成15)年 火山性地震,地殻変動が見られた。

2011(平成23)年10月 低調な噴気活動状態が継続して,2007年12月1日の噴火予報(噴火警戒レベル1,平常)が継続している。

なお,石川啄木は,この岩手山について,次の二句があり,ふるさとの岩手山をこよなく愛していたことを伺い知ることができる。

岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる虫を何と聴くらむ

神無月岩手の山の初雪の 眉に迫りし朝を思ひぬ

次の歌は,死を決意していたと思われるものである。

(だい)といふ()(ひゃく)あまり

(すな)()

()ぬことをやめて(かへ)(きた)れり

この「大という字」は何を意味しているのか,専門家の解釈もあろうが,私は学歴もなく死ぬほど苦しんで歌を詠むことの苦悩をこえて大家になるぞとの意気込みで締めくくられていると思われた。

以上のような啄木の歌について,渡辺淳一氏は,『少しでもものを書いた経験がある者ならわかるはずだが,努力で書く人より才能で書く人のほうが怖い。努力の結晶などという作品より,才能のかけ(,,)()が散らつく作品のほうが無気味である。そしてその才能の最も顕著に表われるのが,小説なら文章で,歌なら酩酊感である。いや,これは小説や歌にかぎらず,すべてに共通するもので,才能ある作家の文章には内側に固有の酩酊感があり,それが読む者を惹きつける。』(前掲『新潮日本文学アルバム石川啄木』,102頁)と述べているが,短い人生だった石川啄木の人生の深き,重き,その生き様が歌のなかに凝縮されていることを知らされた。

 

7.『悲しき玩具』から私が選んだ歌

『悲しき玩具』は啄木の死後の1912(明治45)年6月に東雲堂書店から発行されており,現在では文庫本として『啄木歌集』(岩波書店,1946年)や『悲しき玩具』(角川春樹事務所,2011年)などに収録されている。

なお,盛岡市内にある「啄木新婚の家」を2005(平成17)年に訪れたとき『石川啄木 直筆ノート 悲しき玩具』(財団法人盛岡コンベンション協会,2004年)を入手していたが,啄木の直筆に接することができたのは幸いである。

ここで『悲しき玩具』から四つの歌をご紹介することとした。角川版の2番目の歌は,次のようなものである。

()閉づれど,

心にうかぶ何もなし。

さびしくも,また,眼をあけるかな。

この歌について,『この歌は谷村新司が歌う大ヒット曲『昴(すばる)』の,元ネタとして有名な一首です。「スバル」は石川くんが発行人であった雑誌の名前ですから,作詞をした谷村新司は確信犯だと思います。』(枡野浩一稿「石川くんは私」角川版『悲しき玩具』,105頁)と述べられているが,このような事実があることを初めて知った。

続いて3番目に織り上げられている次の歌は『直筆ノート』では最初に取り上げられている。

途中にてふと気が変り,

つとめ先を休みて,()()も,

()()をさまよへり。

啄木が病気でもないのに休んでしまうのは単調な仕事にあきあきしていたためであろうか。なお,「つとめ先」の註として,『東京朝日新聞社の校正係。上京から約一年後の一九〇九(明治四十二)年三月より勤務。三日に一度の夜勤もこなした(五十一頁三首めは,その夜勤時のことを歌ったもの)。』(角川版『悲しき玩具』,97頁)とあり,その夜勤時の歌は次のものである。

二晩おきに,

()の一時頃に(きり)(どほし)の坂を上りしも―

勤めなればかな。

この二つの歌から啄木の勤務ぶりを知ることができる。

73番目の歌は次のものである。

古新聞!

おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり,

二三行なれど。

この歌について『直筆ノート』には,めずらしく次のようにかなり手直しがしてあり,興味深いものである。

〔二,三行なれど自分の歌の事を〕削除,「古新聞!おやここにおれの歌のことを」追加し,〔賞めて書いてある〕の「る」を削除し,「り」と改訂した。また,〔古新聞かな〕を削除し,「二三行なれど。」を追加している。

次の歌が『悲しき玩具』,『直筆ノート』とも最後の歌となっている。

庭のそとを白き犬ゆけり。

ふりむきて,

犬を飼はむと妻にはかれる。

この「はかれる」は「諮れる」であり,その意味は「上の者が下の者に相談をすること」(『新漢語林』)である。

なお,『直筆ノート』の最後には,この歌の次に「大跨に縁側を歩けば,」の一行が未完のまま残されている。二行目以降をどのような歌にするつもりであったかを知ることはできないが,これが絶筆となったことだけは明らかである。しかし私が読んだ資料には,これについてふれているものはなかった。

啄木の歌は彼の生活環境から自然と生まれたものであり,明治時代の文学者がその学歴からかなり高尚な表現が多いのに対して,自然の気持ちを素直に表現しているように思える。現代においてもそのまま伝えられるものは,生活苦にありながらも人を想い,ふるさとを懐かしむ人間らしさを失っていないことである。

私のふるさとは渋民のような大自然は存在しないが,子供のころに遊んだ小川や城跡は,私の心の中で62年前のままである。

―石川啄木の歌からその生き方を考えながら,

啄木よりも54年多く生きてこられた誕生日を迎え,

自分のこれまで生きてきた道をふりかえりながら―

平成29年1月18日

  横山和夫

Category: 事務所NEWS
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