《吃音を考える―①》
(1)吃音とその治療
トヨタ自動車は1937(昭和12)年8月、(株)豊田自動織機製作所(現在の(株)豊田自動織機)から独立して、トヨタ自動車工業(株)を設立したが、それに伴って私の父は転勤となった。4歳のころ社宅に移り住み、そこで友人となった1人に吃音者がいた。そして、その友人と遊んでしゃべっているうちに私が吃音者となった。とくにア行とカ行がうまく言葉に出なかった。10年余り吃音のまま幼年期から少年期を終えた。国語の授業では突然指名された場合にはスラスラ読めるのであったが、順番に当てられると全くダメであった。また私の出生地が愛知県刈谷であったことから、「ア」と「カ」で始まる言葉には苦労した。そのような体験を持つ私が23歳から教壇に立って話すことを一つの職業としたことは、自分自身でも不思議に思う。
このような体験を持つ私が『とんび』の重松清氏の作品と略歴で彼が吃音者であることを知った。吃音に関する話は『とんび』には出てこなかったが、『きよしこ』(2002年11月、新潮文庫2005年刊)と『青い鳥』(2007年7月、新潮文庫2010年刊)の2つの吃音に関する作品があり、それらを読んだ。ここで「吃音」についてその内容と治療をみてみよう。
まず「吃音」とは、『発音障害の一種。発音の際、第1音が容易に出ない、繰り返す、引き伸ばすなど円滑に話せない状態。発語筋肉・横隔膜筋・声帯などの発作的痙攣(けいれん)による。原因は諸説あるが、不安・緊張など心理的要素が強く、男子に多い。』(広辞苑)とされている。一方、医学的にみると『単語全体ではなく、音や音節の反復で特徴づけられる流暢(りゅうちょう)でない発語のことで3~6歳で発症し、男の子より女の子に多くみられます。』(家庭医学大辞典)とあり、ここでは女の子の方が多いとされている。「吃音」の発症は、『発達上の生理的な現象とも考えられますが、内向的、強迫的な子どもに目立ち、親の厳格・過干渉と、それにともなう緊張・不安定感などとのかかわりも指摘され、神経症的な症状ケースもあります。』(同上)とされている。
また吃音の症状は、『大勢でいっしょに朗読するときはスラスラと読みますが、大勢の前で朗読するときは、つかえます。』(同上)とされ、一次性吃音は、『2歳から2歳半くらいを中心に4歳くらいまでに、発生する』(同上)ものをいい、この時期の治療は、『周囲とくに母親が吃音はこころの問題であることを理解し、対応する(環境調整)だけで月単位で改善していきます。吃音症状については、本人に指摘したり、直したりせず、無干渉とします。』(同上)という対応が必要となる。二次性吃音は、『成長とともに自分のことばの非流暢性を意識しだす』(同上)状態をさし、『これについて悩んだり、流暢に話す努力をしたり、吃音になる状況を回避しようという心理負担が加わってきます。』(同上)とされている。この時期は『吃音そのものが心理的負担となり、重症化していきます。』(同上)が、自意識のある子どもや成人の二次性吃音の治療は、『心理的負担がかなり強いため、環境的配慮はもちろんのこと、幼児期についたこころの歪(ゆが)みを修整するとともに、やる気をださせる、こころのなかに希望を育てる、生き生きさせる、自信をもたせるようにします。言語指導法、遊戯療法、メンタルリハーサル法、自律訓練法、行動療法などいろいろな方法が開拓されていますが、改善は年単位になっています。』(同上)と長期間の治療が必要となるようである。ただ『きよしこ』と『青い鳥』で主人公の吃音者がその治療をしたという事柄はあまりでてこない。作者の重松氏はどのような治療法をとられたか知りたいものである。これについては後にふれることにする。
このほか吃音の段階について、『一般的に吃音には、次の五つの段階がある。』(フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』)として、次の五つが示されている。
第1段階 – 難発。吃音発生時第2段階 – 連発。本人にあまり吃音の自覚のない時期。
第3段階 – 連発。伸発。本人が吃音を気にし始める時期。次第に語頭の音を引き伸ばすようになる。
第4段階 – 難発。吃音を強く自覚するようになる時期。伸発の時間が長くなり、最初の語頭が出にくい難発になる。時に随伴運動が現われる。
第5段階 – 吃音のことが頭から離れず、どもりそうな言葉や場面をできるだけ避けたり、話すこと自体や人付き合いを避けたりする。
なお、『連発 → 伸発 → 難発』へと順番に移行していくものではなく、『難発 → 連発 → 連発+伸発 → 連発+伸発+難発』と新たな要素が加わりながら移行して行くものとされる。 |
また治療法については「花沢研究所の矯正法」として、『以下に、1932年に早稲田大学の心理学教室に早大吃音矯正会を発足させ、「吃音の父」グリーン博士に師事し、国内外の吃音研究に接し、その後、口腔外科医で、千葉大学名誉教授の佐藤伊吉らとの共同研究で、日本で最初に大人の吃音の言語訓練法を考案し、1956年に花沢研究所を設立して、本格的に吃音の言語療法に取り組まれた花沢忠一郎の矯正法(吃音者の間では営利目的ではない、良心的な民間相談機関として知られていた)のエッセンスを掻い摘んで紹介する。これらのゆっくり発声したり、母音を長く発声する練習に加え、近年の会話に先立つ恐怖と不安を取り除く訓練で大人の吃音者の多くは上手く話せるようになるとされる(2006年NYタイムズ。だが、この記事には何%の治癒率か書かれていない)。』(同上)と紹介がされている。
また、この治療法の要点は、次のとおりである(同上)。
心構え‐人をのむ(少し位のことで動じないほど強く図々しくなる)。
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1. 呼吸練習‐胸式呼吸から腹式呼吸(丹田呼吸)に切り替える。
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2. ストレッチなどの柔軟体操を行う。
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3. 発音・朗読練習‐ゆっくり話す。
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4. 息継ぎを忘れない。また、息を吐き、気流を流すことも忘れない。
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5. 早口を改める。
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6. それらを踏まえた発声練習を欠かさない。
7. カミングアウト(coming-out: 世間には言いにくい自分の立場や秘密を公表す
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ること(明鏡):横山)
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8. 研究者は日本以外の最新の研究成果を知る事は大事である。が、当事者
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は学者にならなくても必ずしも良い。
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私は、このうち1、3、4、7、は中学生時代に自分なりの方法でとり入れていた。
(2)吃音と『きよしこ』
『きよしこ』という題名は、吃音の少年「白石きよし」がクリスマスソング「きよし、この夜」を「きよしこ、の夜」と間違えていたことによる。「きよし」は「タ行」と「カ行」のことばがうまく出てこなかったが、この物語は小学一年生から教師になることを目指して大学に進学するまでの物語である。重松氏の体験が基礎となっていると思われることから、ストーリーの内容に吃音者の実情が伝わってくる。この『きよしこ』は、重松氏が吃音の子供を持つ母親から「吃音なんかに負けるな」と息子を励ましてほしい、という手紙を受け取り、その少年への励ましのことばの代わりに書いたものである。
「きよし」は担任の先生の勧めで『おしゃべりサマーセミナー 1971』という吃音矯正プログラムに参加した。そのセミナーでは、『ガリ版刷りのテキストには、ひとの顔を横から見た断面図と、口を正面から見た図がたくさん載っていた。五十音順に、発音するときの口の形や舌の位置、息の通り方が説明してある。その図を見ながら、ゆっくりと、大きな声で、発音の練習を繰り返すのだ。』(65-66頁)という方法が紹介されている。そしてそのテキストには、『息継ぎの箇所に「/」のマークがついた『ジャックと豆の木』も載っていた。息継ぎは深呼吸のように大きく吸い込まなければいけない。音読している間、先生は少年のおなかに手をあてて息が届いているかどうか確かめ、うまくいかないときには「ほら、腹式呼吸!」と軽くおなかを叩く。』(66頁)とされている。この「腹式呼吸」は息継ぎのところで、深く息を吸ってから次のことばを発音することだが、私は中学生になってからこの方法を自分で考えだして実行するようになった。これは理に適ったことだった。重松氏の親は吃音矯正のために何らかの手立てをしたのだろう。
「きよし」は地元のY大(山口大学:横山)の教育学部よりもW大(早稲田大学:横山)の文学部と教育学部を選んで(266頁)、受験するため東京までの新幹線の指定席を購入するところで終っている。本書の末尾には、『少年はおとなになった。学校の先生にはなれなかったが、お話を書く仕事に就いた。『きよしこの夜』の歌詞の正しい意味も知り、悲しい思い出の顔ぶれもすっかり入れ替わった。』(282頁)が、吃音の方は『少しずつうまくしゃべれるようになった。言葉がつっかえても、まあいいじゃないか、と笑ってごまかす図々しさも身につけた。』(同上)ことから、今も吃音が残っているものと思われる。私の場合、子供のころ吃音だったと言っても「冗談でしょう」といわれるようになった。
―吃音であったころを思い出しながら―
平成26年6月20日
横山和夫